2016年




ーーー3/1−−− ミニマグライト


 
部屋の隅から、懐かしい品物が出てきた。ミニマグライト、小型の懐中電灯である。アメリカ映画に登場する警察官がよく使っているマグライトの小型版である。20年ほど前に、息子がクリスマスプレゼントでサンタさんから貰ったものだ。小さい割には重く、登山用の計量コンパクトなヘッドランプなどと比べると、実用性は低い。我が家では、ほとんど使い道が無いような代物である。しかし、ジュラルミンの削り出しで堅牢、また細部に至るまでとても作りが良い。あまり使い道は無くても、手元に置いて眺めているだけで、楽しくなるような逸品だ。

 ヘッド部を回すとスイッチが入るはずだったが、点灯しなかった。電池を交換しても、ダメだった。そこで、分解してみた。電球を取り外して、導通をチェックしたら、切れてはいなかった。その他の部分も調べたが、特に問題は無かった。そこで、電球の破損と判断した。電球の破損と言えば球切れが一般的だが、切れて無くても点かないケースもあるのだろうと思った。

 交換用の電球を入手しようと思い、ネットで調べた。20年前に購入したライトである。いまだに電球が販売されているか、不安があった。ところが、いろんなショップで、普通に売られていた。もちろんライト本体も売られていた。それらの商品情報を見ているうちに、ライトのエンドキャップにスペア電球が格納されているという記述を発見した。

 昔の懐中電灯は、スペア電球が入っているのが普通だった。反射板の裏側あたりのスペースに仕込まれていたものである。現代のLEDライトでは、スペア電球が備えられた物は見たことが無い。LED電球は破損する可能性が低いからであろう。ともあれ、このミニマグライトは20年前の製品だから、当時の標準から言えば、スペア電球が付属していてもおかしくはない。しかし、極めてスリムで、無駄がない形状なので、スペア電球がどこかに入っているとは想像すらしなかった。なるほど、エンドキャップとは気が付かなかった!

 エンドキャップを外し、分解してみたら、たしかに電球が入っていた。20年間、その存在すら知られないまま、出番を待っていた電球である。早速取り換えてスイッチを入れたら、明かりがついた。ちょっとした感動だった。

 目まぐるしく商品が変わる現代、20年以上に渡り販売され続けている物は珍しい。それは人気商品の証だろう。冒頭に述べたように、実用性は薄いような品物である。それでも評判が高いのは、丁寧な作り、行き届いた設計思想に裏付けされているためと思われた。
 



ーーー3/8−−− 里山の様変わり


 
町内の知り合いの男性と、マツタケ採りに行ったときのこと。道無き山中の林を歩きながら、男性はポツリとこう言った「昔は、林の中の地面に、こんな落ちた枝や倒木は無くて、綺麗だったがなあ」

 彼は長野県北部小谷村の出身である。山里の生活では、燃料を山から取ってくるのが大切な仕事だった。日常的に山に入り、手ごろな太さの木を切って持ち帰る。落ちている枝や倒木も、収集の対象となる。切り倒す手間がかからないし、乾いているのですぐに燃やせるから、むしろ都合が良い。また、秋になると、大きな袋を持って上がり、落ち葉を集めてその中に入れて持ち帰ったりもしたそうだ。それは肥料にするためである。

 雪が降ると、山の中に入って立ち木を切り、雪の上で燃やす。ある程度燃えたところで雪を被せて火を消し、炭にする。それを袋に詰めて、持ち帰って燃料にする、というようなこともやったそうだ。

 そのように、山に入っていろいろ探して持ち帰るので、森林の地面は何も無くなっていて、綺麗だったという。それは森林の整備と言うようなものではないが、結果として日当たりや風通しなどが良くなって、里人にとって好ましい環境となっていたのである。

 地域によっては、そのような人手が入ることにより、マツタケが良く育った。マツタケは、日当たりや風通しが良く、土壌の養分が少ない方が生育に適している。森林の恵みを頂くことにより、別の恵みが生じるという循環があったのだ。

 冒頭に述べたように、現代の里山は、綺麗ではない。落ちた木の枝が散乱し、倒木が横たわり、藪が茂り、落ち葉が積み重なっている。それは本来の自然の姿と言えるだろうが、別の観点から見れば、人の生活領域が、里山から退いてしまったことを意味する。

 太古から手付かずで残っている自然はもちろん大切だ。一方で、人が関わってきた自然というものもある。人が暮らしていく事を前提にすれば、それもまた大切なものであったはずだが。





ーーー3/15−−− 双眼鏡


 双眼鏡が欲しくなった。別に必要に迫られたからではない。いやむしろ、ほとんど使う機会は無いだろう。しかし、そういう不要不急の品物の中に、時折どうしても欲しくなる物がある。

 これまでも、二つの双眼鏡を所有してきた。一つは、何時購入したか覚えていないが、とにかく安物で、形は一丁前の双眼鏡だが、性能はさっぱりの代物だった。それを車に載せっぱなしにしてあったので、ガタがきたのか、最近は物が二重に見えるようになった。片目で使うしかないのだから、もはや限界である。

 もう一つは、息子が中学生の頃購入したもので、スペックは13−50×27。13〜50倍のズームで、対物レンズの口径が27ミリである。望遠鏡の知識がある人ならお分かりだろうが、こういうものはほとんど利用価値が無い。口径がこの程度の小ささで、13倍を越える倍率では、視野が暗く不鮮明で、良く見えない。50倍まで上げると、手ブレもひどく、対象物の判別が難しいくらいである。倍率に惹かれて買うと、こういう結末になる。双眼鏡は、倍率が高ければ良いと言うものではない。

 一般的な用途、バードウォッチングなどに使う双眼鏡の、お勧めなスペックは8×30と言われている。8倍の口径30ミリである。先に述べた安物もそうだった。もっと口径が大きいほうが性能は良いが、レンズが大きくなると、加速度的に価格が上がる。また、全体が大きくなり、重量も増す。8×30くらいがちょうど良いのである。

 そのスペックで、ネットで探してみた。手に取って見れないので、使い心地は分からない。価格はピンからキリまである。価格が高い方が性能が良いに決まっているが、、特に必要も無いものに高額を出すつもりはない。かと言って、安物ではつまらないというのは経験済み。いろいろなショップを見て回ったら、手ごろな価格の商品があった。この値段で大丈夫かと思ったが、購入者のレビュー(評判)は良かった。定価は予想価格の半額程度だったが、そのまた半額で値が付いていた。何故半額なのかは分からない。

 心を決めて、その製品を注文した。届くまでの二日間、そわそわしながら待った。こういう趣味的な物ほど、期待に胸が膨らむものである。届いた品物は、一部外観に安っぽいところがあったが、それはレビューで確認済みであった。性能に関わることでは無いから、良しとしよう。余計な所に金をかけないから、この低価格なのだと割り切った。

 双眼鏡は、見え方が命である。早速庭に出て覗いてみた。視界はとてもクリヤーだった。物が二重に見える双眼鏡に慣れた(?)身にとっては、まさに目から鱗が落ちたような見え方だった。目の巾の合わせや、焦点調整などの操作性も、具合が良かった。これは良いものが手に入ったと、嬉しくなった。

 いろいろな物を眺めてみた。有明山の山頂や、北アルプスの稜線を見た。夜には星空を眺めたりした。良く見えるが、やはりすぐに飽きてしまった。数日の間、何か拡大して見る物はないかと物色した。そのうち、庭に小鳥が来た。気付かれぬようにカーテンを開けてレンズを向けたら、可愛い仕草が見えた。肉眼では判別できない特徴がはっきりと見て取れた。それを元に、ネットの鳥類図鑑で調べたら、鳥の名前が分かった。そんな事が、新鮮な体験だった。これまでバードウォッチングには関心が無かったが、これは面白いと感じた。熱心な愛好家が存在するのも納得した。

 これからは、双眼鏡を持参して、野鳥観察に出掛けるのも、日常の楽しみの一つになりそうである。




ーーー3/22−−− 空白の通知表


 学期末と言うことで、思い出した事件がある。長女が小学校5年生の時の事である。

 終業式の日に、家へ帰るなり娘は憮然とした表情で「通知表に書いてないんだよ」と言った。私と家内は、何のことだか咄嗟には分からなかったが、娘が差し出した通知表を開くと、学科の評価の欄に何も記入されておらず、空白だった。私はそれを見た瞬間、「これは面白い」と口にしたことを憶えている。家内は「あらあら、どうしたんでしょうね」というような発言をしたと思う。

 しかし、面白いと感じた人は少なかったようで、保護者の間で問題となり、緊急の保護者会議が開かれた。その場で、担任の教師から説明があったと、出席した家内から聞いた。別に大した理由はなかったようである。私的に忙しいことが重なり、時間が取れなかったというような説明だったとか。思想的な背景でもあるのかと想像した私は、ちょっと気が抜けた。忙しいから通知表を書けなかったというのも、変な話ではある。

 翌日、教頭に付き添われて、担任が通知表の回収に現れた。担任は申し訳無さそうにうなだれていた。恐らくこってり絞られたのだろう。

 後日、この話を知人に話したら、「とんでもない教師だ」と怒りを露にした。別の人に話しても、やはり「けしからん」と批判した。たしかに、職責を果たさなかったという点では、担任に落ち度はあったと思う。しかし私は、この教師に対して怒りは無く、むしろある種の同情を感じていた。それは私の勝手な思い込みだったと思うが、生徒に評価を付けるなどと言う行為は、時にはやりたくないこともあるのではないかと思ったのである。 




ーーー3/29−−− 公民館長終わる


 二年間の公民館長の役が終わった。始まる前は、途方もなく長い二年間のように思われたが、終わってみるとやはり長かった。

 全ての行事が終わり、あとは引継ぎを残すだけとなった二月下旬、近所で飲み会があり、その席である人が「大竹さん、いろいろ大変だったんじゃないですか?」と労をねぎらってくれた。それに対して私は「敗軍の将兵を語らずという心境です」と述べた。すると「別に負けたわけじゃないのに」と笑ってくれたが、私の心境はそのようなものであった。

 わが公民館の活動は、各常会から男女一名ずつ出される評議員、計18名で運営される。同じ地域に住んでいると言うだけで、他に何ら共通のバックグラウンドを持たない人々を、一つにまとめて活動するのは、なかなか気苦労の多いことであった。企業の従業員のように、一定の基準で採用されているわけではないし、賃金で雇っているわけでもない。また、ボランティアの活動のように、本人の自発的な意思で参加しているわけでもない。メンバーの中には、「面倒だけれど仕方なく」という心境の人が、ある程度の割合で存在する。その人たちから、前向きな意欲を引き出すのは、簡単な事ではない。

 見ず知らずの者どうしが、一堂に会して活動をするというのは、新鮮な体験であり、それだけでやりがいのあることだと私は思う。公民館活動には、そのような精神性が相応しいとも言える。しかし、そんな事は、私の独断的見解であり、共感を得るのは難しかった。このように、自分の価値観がなかなか通用せず、もどかしさを感じたことは数え切れない。

 乞われて役を引き受けた私だが、地縁も血縁もない「よそ者」である。そんな私が公民館長という要職を務め上げられるか、当初は心配する人もいたようだ。結果的には、全ての行事を滞りなく終了することができた。私自身としては、理想としていたものとはいささか異なる部分もあったが、それは欲張りというものだろう。事故も災害も無く、無事に活動を終えられたことを、関係した全ての方に感謝したい。

 さて、これは公民館に限らない事だが、地域の会合や行事では、「全員参加のはずなのに、参加しない人がいるのはずるい」という批判がよく起こる。以前は、参加できない人から出不足金(罰金)を取る事もあったらしい。また、「一生懸命やる人と、そうでない人がいるのは、不公平だ」などという愚痴も聞かれる。そういう事が積み重なると、ギスギスした雰囲気になる。

 集団で行動する際には、全員平等にという決め事は必要だ。しかし、個別の事情で、参加できない人もいる。それをおおらかに受け入れるということも必要ではないか。他人がどうであろうとも、自分ができることをすれば良いのだ。参加できる人は、それによって地域社会に貢献出来るのだから幸せだ。参加できない人は、その機会を失うのだから、気の毒だとも言える。気の毒な人を責めたりなじったりするのは良くない事だと、私は思う。

 こんな私の心境を、先日ある識者に話したらこう返された、「大竹さん、あなたの考えは正しいと思います。人は、他者と比べるのではなく、自分の自由な意思で行動すべきです。しかし、それを周囲の人たちに説明しても、恐らく理解を得られないでしょう。他人と比較をするというのは、日本人の基本的な行動原理ですから」

 



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